あまり知らない本能寺の変の真実

こんにちは!セッターです!

皆さん突然ですが本能寺の変をご存じでしょうか。

ほとんどの人が知っている歴史的大事件だと思います。なにせ殺されたのはあの歴史的カリスマの織田信長なのですから、、、

 

しかしその内容を詳しく知っている人、そして真実を知っている人はほとんどいないのではないでしょうか。本日はそんな人たちのために本能寺の変がどんなものであったのか、私なりに解説できたらなと思うので最後まで読んでいただけると幸いです。

 

本能寺の変の概要

まず本能寺の変はどのようなものだったのか軽くご説明します。

時は1582年までさかのぼります。京都の寝静まる夜、当時織田信長の家臣であった明智光秀の大群が本能寺を囲みます。その物音に気付いた信長は目を覚まします。同様に本能寺にいた信長の家臣も物音に気付きます。そして家臣明智光秀の謀反だとわかり、家臣たちは動揺します。だが信長は弓を取り少数ながらも家臣たちと奮戦します。しかし、多勢に無勢。本能寺に火がはなたれ、炎の中49年の生涯を閉じます。明智光秀が謀反を起こした理由は「いじめられていた」、「領土を没収された」など様々な説がありますね。ここまでが皆さんのよく知る真実だと思います。ではここから皆さんがあまり知らない真実をお届けしましょう。

明智光秀はなぜ信長を殺したのか

明智光秀はなぜ信長を殺したのか、これについては今まで多くの議論がなされてきましたし、多くの説が存在すると思います。このなかで私が一番納得しているのが光秀と信長の意見の食い違いです。光秀は幼き頃からこの戦だらけの世の中を終わらせたと願っていました。その願いをかなえるために信長の家臣になり尽力してきました。しかし、信長から信じられない計画を光秀は耳にします。それは「唐入り」です。唐入りとは簡単に言えば中国侵略作戦です。戦乱の世を終わらせることを目的としてきた光秀としては考えられない作戦でした。この出来事が謀反を起こした決定打となったといっても過言ではないでしょう。

信長と光秀の関係性

通説では信長を殺したとき光秀は55歳とされています。しかし、この史記は「明智軍記」という江戸時代に作られたものの史実で徳川家が残した史記には「67歳」記されており、信長よりも18歳も年上だったことがわかりますね。

さて、そんな年の離れた二人ですが、主従関係はどうだったのか見てみましょう。

1571年比叡山焼き討ちの時に信長にこの作戦を進言したのは光秀だと言われています。この作戦では女子供も関係なく焼き殺しました。その徹底ぶりを買われた光秀は正式に信長の家臣となり城を与えてもらうなど、かなりの好待遇を受けていました。さらに先に述べたように信長は光秀に唐入りというとても重要な作戦を相談しています。このことからも二人の関係はかなり親密だったと言えるでしょう。さらに極めつけは本能寺当日のことです。家臣から敵襲の知らせを聞いた時信長は「嫡男の信忠が裏切ったのか」と疑ったと「三河物語」には記されています。最後の最後まで信長の頭の中には「光秀が裏切る」という考えはなかったようですね。

まとめ

今回私が書いたものはほんの一部にすぎませんし歴史には多くの史実があってどの史実を信じるのかはその人の自由です。ですが今回のブログを読んで見方が変わったという方もいるのではないでしょうか。今回「信長を殺した男」~本能寺の変431年目の信実~というマンガを読んでどうしても皆さんに知ってほしくてこのブログを書かせていただきました。光秀はなぜ殺したのか、そして信長はなぜ殺されたのか謎は深まるばかりですね。最後まで読んでいただきありがとうございます。